フラストレーション
はっと目が覚めてから自分の状態を把握するまでに、数瞬の間が必要だった。寝起きのいいグラハムにしては珍しいことだ。
寝ぼけているわけではないのに現実を認識できなかったのは、ひとえにそれを認めたくなかったからだ。しかし、だからと言って現実逃避で二度寝するにはあまりにリスクが高い状況でもあった。起床予定時刻までまだ間はあるが、もう一度眠りに落ちればきっと寝坊する。
更にいうならば、それ以前の前提としてこのまま眠るにはあまりに不快だった。下肢がじっとりと濡れていて、目覚めたばかりなのに脱力感がある。誰のせいでもない、自分のせいなのだが。
言い訳をするならばこれは不可抗力だ。健康なハイスクールの男子生徒たるもの、しょっちゅう経験していることであって、グラハムだけが特別なのではない。純然たる生理現象だ。その際に見る夢に好きな相手が出てくることも、その夢が更に性的な色味を帯びていることもなんら不自然ではない。
しかし、それでも尚、そっと起き上がって自分の状態を確認したグラハムは僅かな罪悪感を覚えるのだった。夢で見た相手――年上の、友人と言うには近付きすぎた相手に。
細心の注意を払って起き上がったのでシーツが汚れた様子はなく、そのことにまず安堵する。さすがにそうなると誤魔化しがきかない。
ベッドから降りて下着を脱ぐ。身体に残った粘性の高い液体を脱いだ下着で乱雑に拭うと、足音を忍ばせてバスルームへ向かった。眠りの深い両親は起床時間より早く起きてくることは稀なのだが、それでも気をつけるに越したことはない。
シャワーのコックをひねって全身を熱い湯が打ち始めたところで、ようやく一つ息がつけた。全身にわだかまる眠気とだるさが押し流されていく気がする。そして、クリアになった頭は先ほどの夢を反芻し始めた。よせばいいのに。
夢に出てきた相手、ビリー・カタギリはこの街にある大学の学生だ。出会ったのは、彼が大学入学のためにこの街へ越してきた夏のこと。学校から出された課題がおそろしく厄介なものだったとき、図書館で苦戦していたグラハムに隣の席から彼が声をかけてきたのだ。余計なお世話かもしれないけれど、と言って示された解決の糸口は的確でエレガントであり、かつ、教えられてみればどうして気付かなかったのだろう、と思うような事項だった。
こんな課題がでるなんて、君はいい先生に教わっているんだね、と言って立ち去りかけた相手を追いかけて名を尋ね、強引に奢ったコーヒー1杯分、話をした。それが始まりだ。
同年代の友人には事欠かなかったグラハムだが、それを超えての交流というのは得がたいものだ。ハイスクールの枠を超えてできた年上の友人との時間は実に有意義だった。グラハムのまだ知らない世界で生きている彼との会話は刺激的で、なにより頭の回転の速い彼からのレスポンスは多分に予想外の要素を含んでいるのが面白い。
気付けばそれにすっかり嵌り込み、時間が空けば彼のところへと向かうことが当然になったのはいつの頃からか。同級生との付き合いは不自然ではない程度に最小限にとどめ、とにかく彼といたかった。それが友情を越えたきっかけは何だったのか、グラハムはもう覚えていない。しかし、自分の気持ちを完全に自覚したときのことはよく覚えている。それは丁度今日のように夢を見て目覚めた日だった。それまでそういった夢のお相手は、所謂お付き合いをしている相手だったり魅力的な女優であったりあるいは具体性には欠けるもののグラハムの好みを体現したような、とにかく間違いなく女性であった。一度たりとも同性であったことはない。ましてや、いくら端正な顔立ちをしているとはいえ、あんな奇抜なファッションセンスの自分よりずっと背の高い若干不感症気味の男であったことはないのだ。
さすがにその時には幾許かの時間が必要だったが、しかしグラハムは自分の気持ちを受け入れた。というよりは、それまでの自分に納得がいったというほうがいい。カタギリのことは知りたいが、しかし自分の知らない大学での話を延々とされると苛立つのも、実験が立て込んでいるとかで3日も連絡が取れなくなると落ち着かなくなるのも、クリスマスには何を贈ろうか2ヶ月も悩んでしまったのも、彼から送られてくるメールには最優先で返事をするのも、全て恋心の故とするならば説明がつく。
そしてグラハムは善は急げとばかりにカタギリに告白をした。君が好きだ、と。それがもう1年も前のことだ。
カタギリとの友情が崩れるかもしれないという懸念はあった。秘めたままでいたほうが彼との関係は良好なのではないかとも思った。しかし、自覚してしまった気持ちはグラハム一人の手には負えなかったのだ。
衝動的な告白をしてその結果に怯えるグラハムに、カタギリは最初目を見張って驚いたものの、やわらかく笑っていったものだ。「そう、ありがとう」と。そして、それきりだ。
グラハムがシャワーを止めて頭を振ると、金髪から水滴が飛び散った。腕を伸ばして棚からタオルを取り出し、力任せに髪を拭く。がしがし、と音が立つほど乱暴に拭いているといつも、髪が痛むよ、と言ってカタギリが止める。そう言ってグラハムの手からタオルを奪い、丁寧に髪を乾かしていくのがどうやら好きらしい。もっともそれは彼といるときの話であって、今はグラハムの自宅なので当然カタギリはいない。おかげで、最近急に伸びた手足を持て余して出口にぶつかっても、鏡に映るひょろりとした体躯に悪態をついても、なだめられることがない。成長期特有の関節の痛みや、縦にばかり伸びて筋肉が追いついてこない自分の身体をグラハムはこの数年持て余しているわけだが、「それが大人になるってことだよ」とカタギリに言われれば受け入れてしまうのだ。それは、早く大人になって彼に追いつきたいという欲求が強まるからでもあるのだが。
カタギリが自分に好意を持っていることはほぼ疑いがない、とグラハムは思う。グラハムの告白以降避けられるわけでもないし、カタギリが年上の余裕でもってグラハムを甘やかし続けていることにも変わりない。しかし、二人の関係は、少し行き過ぎた友情というような曖昧なあたりにぶら下がったままだ。最初の告白以降、グラハムは何かというとカタギリに迫り続け、ともすれば押し倒してみたりもしたのだが、いつもやんわりといなされる。頬や額へのじゃれるようなキスは許されるし与えられるが、そこまでだ。何度好きだと繰り返しても、同じ言葉を返されたことはない。なのに、グラハムの場所はカタギリの側に居心地良く用意されているのだ。そこにいついてしまうのはカタギリのせいであって自分のせいではない、と主張しても文句は出ないだろう。
半端に濡れた髪のまま、Tシャツとスウェットを着込むとグラハムは家をでた。もう夏も近いが、日が昇ったばかりなので、この時間の空気はまだひんやりと涼しい。軽く屈伸運動とストレッチをして、地面を蹴る。こんな気持ちの時には身体を動かすのが一番だ。じっとしていても思考は堂々めぐりを繰り返すだけなのだから。
一定のリズムを刻んで走りながら、グラハムの思いはまたカタギリへととぶ。いったい彼はどういうつもりで自分といるのだろうか。中途半端な状況を維持したまま、しかし二人の距離が近いことは疑いがない。
グラハムが年下で、まだ幼いから、本気に取ってもらえないのだろうか。何度も繰り返した告白は、ただ子供の気まぐれだと思われているのだろうか。グラハムにとってはこれ以上ないくらいに心外なことだが、しかしそうとしか思えないことも確かだ。いくら言葉を尽くして想いを向けても、カタギリがグラハムをあくまで子ども扱いするから、どうしても二人の関係はその先へは進まない。彼が自分を律していることは確実だ。そんな理性など弾けさせてしまえばいいのにと思いながら、しかしグラハムのもつ数少ない手練手管ではどうしてもカタギリを陥落させることはできなかった。ただ苦笑されただけだ。何度も、何度も。
「グラハム!?」
不意に聞こえた声にグラハムは速度を落とした。まさに今の今、グラハムの脳内を占拠していた人物の声だ。視線を走らせると、道路の対岸に見慣れた長身の青年の姿があった。車通りが少ないのをいいことに、彼の元まで駆けていく。
「やあ、カタギリ」
「どうしたんだい、こんなところで、こんな時間に」
心底驚いたらしい彼の台詞に、辺りをぐるりと見回す。目に入るのは、何度も通ったカタギリの住まいの近くの光景だ。グラハムの家からは車でも15分ほどは距離があるはずだ。改めてみれば、太陽もだいぶ高く昇っている。
「まさかとは思うけれど、走ってここまで来たのかい」
「そのまさかだ。家の近所を回って終わりにするつもりだったのだけれど」
我ながら少し驚くな、と呟くと、呆れたようなため息が返された。荒くなった息を整えながら、グラハムは彼の様子を伺う。いつものように高く結い上げられた髪に、少し疲れたような顔。最近は実習の準備なので忙しいと言っていた。昨夜遅くにメールの返信をくれたときにはまだ大学にいると言っていたから、きっと泊り込んでの帰りなのだろう。そういえば顔を合わせるのはしばらくぶりだ。前にあってから3日ほど経っただろうか、と思い、3日でもう我慢がきかない自分に少し呆れる。無意識ながらも会いたいという気持ちがあったからここまで走ってきてしまったのだろうか、と考えてからさすがに脳内でそれを否定した。いくらなんでもそれは行き過ぎだ…潜在意識での可能性は否定しきれないが、少なくとも意識してそんなことをしたのではない、と思いたい。
そんなグラハムの内心を知ってか知らずか、カタギリは僅かに眉を寄せてグラハムを見下ろしてきた。
「日焼け止めも塗らずに外に出たんだろう」
「何故わかる?」
「首筋が赤くなっているよ」
ほら、とカタギリの手がグラハムの首筋に当てられる。ひやりとしたそれが心地いい。思わずそちらへ体重を傾けると、小さく笑われた。また子ども扱いだが、触れられることが嬉しいのだから仕方がない。全く、自分でもどうかしていると思わずにはいられないが。
「走ってきたからだと思うが?」
「それだけとは到底思えないよ。ただでさえ君の肌は紫外線には強くないし、それでなくてもこの時期の朝の太陽光線は強烈だ」
口調だけはいつも通りを装ったが、表情はきっと緩んでしまっているだろう。それでもカタギリの態度は変わらない。理詰めでこちらを気遣うのは彼の癖で、それが好ましくもありもどかしくもある。こんな気持ちになったのはこの相手が初めてのことだ。
とりあえず冷やした方がいいだろうから家においで、とカタギリが踵を返す。触れていた手が離れ、首筋を風が通り抜けた。離れていった体温が名残惜しくて、なんとか引き止められないかと思ったグラハムは、目の前で揺れる茶色の髪を咄嗟に思い切り引いてしまった。
「痛!!」
ごき、と音が鳴るほどの角度でカタギリの首がのけぞる。力いっぱい掴んだままの髪は離さずに、グラハムは非難の色を乗せたカタギリの目を見据えた。が、なんと言っていいのかわからない。
「君ねえ…髪がまとめて抜けそうなんだけれど、どうしてくれるんだい」
違和感が残るらしい首をさすりながら、カタギリがそう恨み言を寄越す。少しでも離れたくはないのだと、そう言ってしまえば楽なのだろうとは思うが、しかし流されいなされ続けた経験が口を開くことを躊躇わせる。押して押して押し続けて今に至るわけではあるが、中途半端にされていることに傷ついていないわけではないのだ…これでも。
ただひたすら睨むような強さでカタギリを見つめていると、相対する瞳の色がふと和んだ。グラハムが掴んだ髪はそのままに、もう一度こちらに向き直ってくる。髪が長いからこそできることだな、とグラハムは脳の片隅でどうでもいいことを考えた。
「またそんな目をして」
苦笑しながらカタギリがもう一度手を伸ばしてくる。そのまま、目元に繊細な指先が触れてきた。長い指と大きな手のひらで片頬を包むようにされ、グラハムは僅かに目を見開く。こんな触れられ方は初めてだ。
「しばらくすれば冷めると思っていたんだよ。君のその感情は一時的なもので、いずれ落ち着くときが来ると」
言いながら、指先で耳元をなぞられる。急に愛しげに触れられることに驚きながらも、グラハムは視線の強さを保とうとした。
「それは心外だな。いつでも本気だったというのに」
「うん、知っているよ。でも、長く続く本気ではないと思っていたんだ」
ごめんね、と言ってカタギリが笑う。その笑い方は、グラハムの好きなものだ。やわらかい笑み。ずっとこんな笑い方をされていたから、グラハムはカタギリを諦めることができなかった。そのことをこの男はわかっているのだろうか。
だが、それは後から質せばいいことだ。今はもっと重要なことがある。
グラハムはカタギリの手に頬を寄せて、掴んだままの彼の髪を軽く引いた。ずっと欲しかった言葉を、彼の口からききたくて。
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