Good Morning






コーヒーメーカーのスイッチを入れる。こぽこぽと音を立てて落ちていく茶色の液体は、職場で飲むものと同じ名前がついているとは思えないほどに香気高い。しかし、仕事の時にはあの、コーヒーと言うのもおこがましいような色のついた湯でないと集中しきれないというのは何とも不思議な話だ。
コーヒーを飲みながら、リビングの端末を立ち上げる。端に表示される時刻は5:00。仕事用にしているわけではない端末なので、重要な用件のメールがそうそう来るわけでもないのだが、できるかぎり1日に1度くらいはチェックすることにしている。
時刻とは反対側に表示されている小さな画面では無機質な文字列に変換されたニュースが流されている。視界の端を右から左に流れていく文字から拾える情報は、娯楽にはさほど興味のないカタギリでも名前を知っている映画俳優が結婚したとか、数年前に一世を風靡した女性歌手に子供が生まれたとか、そういったようなものだった。平和なことだ、と胸内でひとりごちる。それを願う気持ちと自身の立場との矛盾について考えるには、今の精神状態は安定にすぎた。よって、今回の慨嘆はただ慨嘆として消えていく。


ざっと目を通した限り、さしあたって急ぎのメールはなかった。端末を閉じようとした間際に届いたメールが住まいのセキュリティ強化を勧めるダイレクトメールだったことに苦笑し、それを削除する。今度こそ端末を閉じてから空になったマグをキッチンのシンクに置き、隣室への扉を静かに開けた。



部屋の広さと比べると置かれているベッドは若干小さく感じられた。そう思ってはいるものの、あえてそのサイズのまま買い替えないのは若干の下心があるからだ。肩下でゆるく纏めていた髪を解き、シーツの間を滑るようにベッドに入ってゆく。

「もうちょっと詰めてくれるかな」

ほとんど吐息のような微かな声で呟き、先客の額にいつものように口づける。枕に散った金糸のような髪に触れると、同じく金糸のような睫に縁取られた碧の瞳が半分だけ姿を現した。

「カタギリ?」

表情の割にその声は明晰だ。覚醒しきっているわけではないが、寝ぼけているわけでもない。この寝起きのよさは天性のものなのか、それとも軍で生きるうちに鍛えられたものなのか、カタギリにはわからない。カタギリにわかっているのは、問いかけの形をとっている彼の台詞が、実際は確信であることくらいだ。

「そうだよ」

わかりきった答えを返しながら、カタギリは恋人の肌に触れる。いつでもカタギリよりは高めの体温を持つ彼だが、寝起きの今はいっそうあたたかく、その表面は意外なほどになめらかだ。そして、美しい。このまま事に運ぶことも考えたないではなかったが、彼と自分の勤務状況を鑑みて、一瞬で断念した。彼は今日は通常勤務だし、彼よりも時間が遅いとはいえ自分も昼前には出勤しなければならない。それを振り切ってまでもと望む以上には二人とも職業倫理に固かったし、今の状況ならばさほど苦労せずに衝動を抑えられる程度には大人だった。
カタギリがかけていた眼鏡を外し、サイドボードに置く時にはすっかりグラハムの口調はいつもどおりだった。

「今何時だ?」
「6時前ぐらいじゃなかったかな。君はもう起きるんだろう?僕は少し眠るから、君が出る頃に一度起こしてくれるかな」
「…そういいながら、この腕はなんだ」

少々憮然としたグラハムの台詞に返る言葉はなかった。「君は起きるんだろう?」と言った男は、その腕でグラハムの身体をしっかりと捕らえている。少しばかりげんなりとしたグラハムに、半ば眠りに落ちかけたカタギリは重そうな瞬きを向けた。

「ああ、そうだ」
「なんだ」
「誕生日、おめでとう」

虚をつかれたグラハムが目を瞠る。その隙に、満足したように笑みを浮かべたカタギリの呼吸は寝息に変わっていた。寝起きはともかく寝つきは異常にいい男の腕の中で、グラハムは一つ嘆息する。

「全く…」

そう呟いて、グラハムは男の腕から抜け出した。既にぐっすり眠り込んだらしいカタギリは目を覚ます気配もない。

「そういうことはちゃんと起きているときに言うものではないか?」

当然、恨み言めいた台詞に返ってくる言葉もない。ただ寝息を立てる男を見下ろすグラハムの瞳は、だがやわらかく眇められていた。それから、ふと手を伸ばし、先ほどカタギリがグラハムの髪に触れたように、カタギリの髪に触れる。

「ありがとう」

グラハムは傍らの椅子にかけてあったバスローブをはおると静かに扉を開けた。

今日も良い日だ。